(社会的に)二度死にかけた人間の話

鎮魂の鐘は二度鳴る

これは私の大好きな「機動戦士ガンダムΖΖ」の第8話タイトル。

"二度"というところしかかかってませんけど。

あらかじめ断っておきます。

本稿は99.99クリアドライ味の500ml缶をぐびぐびあおりながら書いています。

本当は自分が沈み込んでいた頃の話なんかは、この名義ではアウトプットするつもりはありませんでしが、バイブスの揺れる記事を立て続けに読んでどうにも収まらないモノが沸き上がってきたので放出したくなりした。

最近は、ブログについて色々と試行錯誤した記事を書いていましたが今日は思い付くままに書き綴らせていただきます。

 

最初の鐘の音

私はもともと神経質なところがあり、例えば、時計の針の音を一度気にしてしまうとその日の寝付きが悪くなるようなキッズでした。

それは中学校にあがっても続き、学校生活においては人間関係にまで影響がおよび、誰かに嫌われて陰口を言われるのが耐えられないという思いから自らに、同学年のみんなに毎日誰一人欠かすことなく話をしに行くというルーティンを課していました。

それぞれの興味がありそうな話題を事前に考えてから声をかけに行くという徹底ぶり。

今、思い返すと行き過ぎてると感じるんですが、当時は「大人もきっとこうやって人間関係をキープしているんだ」と思い込んで、これは社会に適合するために避けて通れないものだと信じていました。

 

そんな中学校生活も3年の半ばともなると進路について考え始めます。

私は、まあ、可もなく不可もなくといったところで偏差値で言えば60に届かない程度の学力でした。

なので担任からは、このまま努力すれば数字どおりの学校は問題なく受かるだろうと言われ、この時は特に不安を感じることはありせんでした。

 

そんな中、当時通っていた塾の講師の奨めで模擬試験を受けに行きました。

 

この日、一度目の鐘が鳴りました。

 

もはや、ひとつ目と教科は思い出せません。

最初の十何分かは、いつも学校や塾での試験と同じような姿勢で問題を解いていました。

難問目かで全く分からない問題が出題されました。

「分からない」と意識した瞬間から、もう頭の中がバチバチフラッシュしてなんにも考えられない状態になりした。

その時間がどれだけ続いたか分かりませんが、エイケンを意識するレベルの苦痛でした。

フラッシュが止んだと思った矢先、心臓が破裂するかと思うくらい強く、早く鼓動しました。

突然、尿意が襲ってきました。

私は、このシチュエーションに耐えることができず見回りの大人に、気持ち悪いので帰らせて欲しいと懇願し、試験会場をあとにしました。

 

開放されたと思ったのも束の間。

帰宅のために乗った電車でも先ほどまでの動機と尿意に襲われ、一駅ごとに降車することになりました。

 

ようやく帰宅してから母にありのままを伝えると、心療内科に診てもらった方が良いと病院に連れられ、パニック障害の診断を受けました。

 

それから、中学の授業でも全く同じ症状に襲われ、もう無理だと思う度に教師にトイレに行きたいと伝え教室から逃げ出しました。

 

そんな私の様子を見て、じゃらじゃらした半分不良みたいなグループが私に聞こえるように「しちほだって、しょんべん近ぇよなー!」などと面白がったりしました。

この時、本当に消えてしまいたいと思いました。

しかし、前述の声かけ運動のおかげか味方は少なくなく、クラスメイトは「気にすることはない」と言ってくれました。

おそらく、このクラスメイトがいなければ踏ん張ることができず、卒業までの残りの数ヶ月、不登校になっていたんじゃないかな。

この時のクラスメイトと、なんとか踏ん張って、妙な行動に出ることなく、学校も休むことなく通い続けたあの頃の私に、何度でもありがとうと声をかけたい。

 

その後、なんとか志望校に合格し進学すると信じられないくらいぱたりとパニック障害の症状は治まりました。

高校1年、4月。

教室の窓から吹き抜ける暖かな風の心地よさに安心していました。

もがき苦しんでいた頃の私を静かに眠りました。

 

二度目の鐘の音

その後の高校生活は入部したバスケットボール部が血反吐吐きかけるほど辛かったりしたものの、平穏な充実した日々を過ごしました。

進学ついても早々に音楽の専門学校に進むことを決め、あっさりとした卒業、進学となりました。

 

専門学校では、好きな音楽で繋がれるクラスメイトに囲まれ実に充実した学校生活を送っていました。 

 

そんなある日、唐突に悪夢が蘇りました。

電車に乗っている最中、動機に襲われます。

私は再びパニック障害を発症しました。

前回は受験におけるストレスが原因であるということが分かっていたので少しの間、辛抱すれば治まってくれるという希望がありましたが、この時は明確な理由が見つけられず、先の見えない不安から最悪の選択肢まで考えることがありした。

 

この頃、現在の妻との交際が始まりましたが、彼女はパニック障害を抱える私を理解しようとしてくれ、電車に乗っても一駅ずつ降車せざるを得ないような私に黙って付き合ってくれました。

正直、彼女がいなければとっくに終わっていたと思います。

 

不幸な二度目の鐘は6年ほど鳴り続けました。

なんとか就職し、仕事はするものの服用する薬の副作用で眠気に襲われ毎日ふらふら。

会議などの閉鎖的空間ではしょっちゅう発作を起こし、薬を飲んでもまともでいることができず、ただただ苦痛な時間を耐え忍ぶのみ。

 

しかし、そんな耐え難い苦痛な日常はあっけなく終わりました。

結婚式を挙げた翌日からぱたりとパニック障害の症状が治まり、それ以降現在まで発作は起きていません。

支えてくれた妻と人生を歩むことを決められた、というのが安心に繋がって症状が和らいだのかもしれません。

 

私は今こうして酒を飲みながらブログの記事を書いています。

妻がいます。

二人の子供にも恵まれました。

 

パニック障害に悩まされていた頃を思うと、今の恵まれた状況が嘘のようです。

 

今、私は生きていますが、鐘が鳴ったそれぞれタイミングで死んでいたものと思っています。

何か少し環境が違っただけで、ほんの少し思考の流れが違っただけで死を選択していたと思うからです。

 

ゆえに、私は今、笑って過ごせている日常をおまけだと思っています。

死を選択しかけ、二度、鎮魂の鐘は鳴りました。

今、生きているこの瞬間は奇跡に他なりません。

 

私は、おまけの人生を、手を差し伸べ救ってくれた妻と築く家庭を大切にして、充実させたいと心から思います。

苦しみと共に消えていった二人の私がうらやむ今の生活が、どうか一日でも永くつづきますように。

 

おわり。

 

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